googleマップを開きます
アクセス長宗我部元親公は天文8年(1539年)に岡豊城で誕生しました。幼少の頃は色が白く、性格もおとなしかった為、家臣たちは陰で「姫若子さま」と呼んでいたそうです。
青年期になっても「槍の突き方も知らないうつけ者」と陰口をたたかれていた元親公が22歳で初めて戦に臨んだのが、当時、宿敵本山氏の家来が守っていた長浜城の攻防戦です。
戦闘前夜、若宮八幡宮の松林に陣を張り、一夜心静かに戦勝を祈願し初陣に臨んだところその戦振りは目覚しく、戸の本の合戦では瞬く間に敵を蹴散らし、長浜城主の大窪美作守は朝倉城に敗退しました。
これを見た家臣たちは驚きと喜びに沸き返り、以後「土佐の出来人」と誉め称え、これから以降、15年かけて土佐全体を掌握し、さらに10年後には四国のほぼ全土を手中に収めました。
しかし天正13年(1585年)、圧倒的な軍勢をほこる豊臣秀吉の四国征伐にあい、わずか半年後には戦わずして秀吉軍の軍門に降り土佐一国が安堵されました。
その後秀吉軍の先鋒隊として他の四国勢とともに九州征伐に向かい、大友宗麟の援軍として豊後(大分県)の戸次川で島津軍と壮烈な戦いをくりひろげ、ついに全滅状態となりました。この戦で長男の信親公を失ったことが、長宗我部家の滅亡の布石となりました。
土佐に帰った元親公は検地を始め、「長宗我部地検帳」の作成に取りかかり、さらに城を浦戸城に移し、「長宗我部百ヶ条」を発布し、四男盛親公とともに朝鮮に出兵するなど精力的に活動しますが、慶長4年(1599年)、京、伏見の館で没しました。享年61歳の波乱にとんだ一生でした。
法号を雪蹊恕三大禅定門と号し、墓は長浜の天甫寺に、位牌は雪蹊寺に祭られ、ここを菩提寺としました。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍に属した長宗我部盛親公は敗走し、その後戦後処理に失敗し、土佐一国を山内氏に譲り、京で浪人生活を送りました。元和元年(1615年)の大阪夏の陣では豊臣の勇将として戦いましたが、落城後捕らえられ、京、六条河原で斬殺され、ここに長宗我部一族は滅亡しました。